209号の当選番号は 002 024 030 088 138 です。

急ぎでなくても


人には誰しも、まるで自分自身の鋳型のようにぴったりと収まる場所があると言います。
どんなにドロドロに疲れていようと、どんなにぺしゃんこに凹んでいようと、そこに行けば本来の自分の姿に戻れる。
そんな場所があるというのです。もっとも、そこを見つけることができるかどうかは天の誰かさんの気分次第。
私には今のところそんな場所は見つかっていません。
 
ただ、このお店がそこであるお客さんは何人かいらっしゃるようです。
「この世の終わりの時間が分かったら、その瞬間は絶対ここにいる!」と断言された方もいますし、今は亡くなってしまった方ですが娘さんが「母が最後にここに来たいって言っていたから」と遺影と一緒にいつも座っていた席でお茶して帰られたこともあります。
たぶんその方にとって、その席がぴったりと収まる場所だったのだと思います。
 
このお店は、座れば自動的に身体にフィットするようなハイテクチェアを使っているわけでもありませんし、飲まなければ禁断症状が出てしまうほど特別なお飲み物を出しているわけでもありません。
たまたま風水的な何かが上手く重なったのか、神様が鋳型の保管場所にしているのか、何らかの巡り合わせがあるのでしょう。
とにかく、こんな小さなお店の割にはぴったりと収まっている人が多いような気がするのです。
 
そんな話はさておいて、私は高校生の頃から大学生の初め頃まで押し入れ暮らしをしていました。
自分の部屋の押し入れに布団を敷き、上にライトを設置して、部屋にいる時はいつもそこで過ごしていたのです。
そしてその頃私は本の虫で、お小遣いのほとんどを本に費やしていました。
限られた予算ですから、買うのはもっぱら古本屋で文庫本ばかり。
そして読み終えた本は枕元に積み上げたり、それこそ枕にしたりしていたのですが徐々に置き場がなくなってきたのです。
そこで布団の下に押し込むようにしたのですが、そうすると自分が乗っかっている以外のスペースの標高が上がっていくことになります。
居心地の良かったはずの押し入れが、だんだん寝返りも打てないような窮屈な場所へと変貌したのです。
そこで諦めて部屋の方にいくらでも本を押し込む余地のあるベッドを作って移住したのですが、もしあのまま押し入れに住み続けていたら積み上げた本で私の身体にぴったりの鋳型ができ、身動きがとれなくなっていたかも知れません。
 
再び話は変わりますが、今月初めに当店は店内の飲食を自粛させていただきました。
何人かのお客さんから心配していただいたのですが、別に外部から休業要請があったとか、自粛警察に嫌がらせをされたとかというわけではありません。
単に仕入れをしていた業者さんの方が営業自粛に入ってしまったからというだけなのです。
スイーツに使う生クリームとかバターならば、多少の値段に目をつぶれば近くで買うこともできるのですが、ランチの素材である牧草育ちの健康牛肩ロースや欧州ブレンドのチーズなどは業者さんを通さないと手に入りません。
一方、業者さんの方も卸先のお店が自粛ばかりになってしまったため、営業し続ける方が赤字が大きくなってしまったそうなのです。
そんなわけで、最初の非常自体宣言の目安であった6日まで店内飲食を自粛したのですが、非常自体宣言は延長されました。
それでも何とかお肉とチーズは入荷のめどが立ちましたので店内飲食を再開することにしたのです。
 
飲食を再開するにあたって、他のお店にみられるように席の一部を使えなくするとか、間をアクリルやビニールで仕切ることなども一応は考えました。
もしこのお店が、食べることによって栄養を補給することを目的としているのならそれもありだと思います。
しかし、ここはくつろぎを得るための場所です。
そのため、以前と同じ空間を提供することにしました。店として対策をとっていないわけではありません。
空気は常に循環し、滞留することがないようにしています。
おしぼりはウイルスブロック仕様であり、予備も各テーブルにおいています。
あとはお食事の際にはできるだけ静かに話し、食後にマスクをつけて会話を楽しんでいただければ、感染の機会はほぼないと思います。
 
喫茶店というところは、生存することに関しては無駄な場所だと思います。
しかし、人生に無駄は必要だと思います。家庭教師の際によく生徒に話すのですが、学校の勉強は基本的に無駄なものであり、必要なことは社会に出れば学べると。
しかし、人生を豊かにするのは無駄なことであり、一生のうちこれだけ長い時間を無駄なことのために費やせる機会はもうないのだと。
私が押し入れの中で読んだ本は、そのほとんどが無駄以外の何物でもないものでした。
しかしその無駄な知識は私の人生を豊かにしてくれましたし、このエッセイに生かしてお客さんにちょっとした笑顔を与えることもできているのです。
喫茶店は至急必要なものではありませんが、不要なものではないと思います。
今後もこの店がこのままの姿であり続けることができるよう、感染防止にご協力のほど宜しくお願い致します。



KURIKURI