231号の当選番号は 022 064 122 135 145 です。

完爾の勘違い


皆さんは歌手の米津玄師さんの名前を初めて見たとき、どのような姿を想像しましたか?
私はてっきり空也上人みたいな方が坊さんバンドのボーカルをしているのだと思い、「涅槃*でご飯」みたいな説法ラップを口から小さな仏様を吐きながらシャウトしている姿を想像しました(参照:空也上人像)。
ところが実際に見てみるとツルツルのお坊さんどころか、マスクをすればまるで人相が分からなくなるほど前髪を伸ばした今時の若者。
名前とのギャップの大きさに騙されたような気になったものです。
(*涅槃(ねはん):仏教における最終目的地、ざっくり言うと仏教界の天国)
 
こんな事を思い出したのは「チョコパイパフェ」の構想を練っていた時に、お客さんから「やっぱりマシュマロが入っているのですか?」と聞かれたから。
私は「チョコパイ」という名前からパイ生地の中にチョコクリームが入ったお菓子をイメージしていたのですが、世間一般ではマシュマロをケーキで挟んでチョココートしたお菓子の方がメジャーな様子。
どうやら私のイメージは世間とギャップがあるようです。
しかし世間がそう思っているのなら、お客さんが騙されたような気にならないためにはマシュマロをいれるべきでしょう。
とはいえ、普通のマシュマロでは面白くないのでギモーブをいれることにしたのです。
ここで「ギモーブ」と聞いて「What is it?」と思った方もいるかも知れませんが、それはギモン文であってギモーブではありません。
ギモーブとは卵白で作るマシュマロとは異なり、煮詰めた果汁にゼラチンを加えてひたすら泡立てて作るもっちり&フルーティなお菓子のこと。
これをイチゴと一緒にチョコケーキにのせ、チョコムースと合わせて世間の「チョコパイ」のイメージに近付けつつ、その上にパイ皮でサンドしたチョコカスタードをのせて私の「チョコパイ」要素もいれたチョコパイパフェを作り上げたのです。
 
そしてイメージと異なるものといえば「完爾(かんじ)」という漢字(駄洒落のつもりはありません(微嘘))。
私がその字について知っているのは「石原完爾」という軍人さんの名前だけだったので、とても堅苦しいイメージを持っていたのです。
ところが今読んでいるハードボイルド系小説によると「完爾」とは「にっこりと」という意味の言葉。
「完爾と笑う」とか、動詞化して「完爾した」みたいに使うそうです。字面からも音からもイメージしづらいのですが、実は柔らかな言葉だったのです。
そしてそんなことを知ってしまうと石原完爾氏のイメージも変わるもの。
いつか彼の功績を別の側面から評価した話を読んでみたいものです。
 
さて、このエッセイを書いている時点でコロナは爆速拡大中。
果たしてこのエッセイを手に取ってくれる方がどれほどいらっしゃるのか不安で仕方ありません。
しかし、こんな状態でも全力で面白いエッセイを書いてやろうと思えるのは、一年半ほど前にちょっとした出来事があったから。
その頃はコロナの情報も少なく、不安いっぱいで外出さえもままならない時期でした。
当然店もヒマで、エッセイを読んでくれる人やパフェを食べてくれる人も少なく、パフェの切り替え時には大量のパフェ材料を廃棄せざる得なかったのです。
そんな状態ですから新作パフェを考える気力は失せますし、外出すらできない状態ではネタもなく、面白いエッセイを考えるのも苦痛でした。
そんな時に偶然、あるお客さんが私のエッセイを読みながら笑顔になる瞬間を見てしまったのです。
それ以前にも、このエッセイが面白かったと褒めてくださった方は何人かいらっしゃったのですが、百聞は一見に如かず、実際に楽しそうな姿を見ると嬉しさが何倍も違います。
普通、漫画や動画ならともかく文章で笑う時は、たとえ脳が爆笑していたとしても表情に表れるのは口元をほころばせる程度もの。
しかしこの方はとても活字感受性に優れているのでしょう、顔全体で完爾と微笑んでいたのです。
 
思えば二十数年前、一般企業の研究職を捨ててこのお店を開いたのは笑顔が見たかったから。
研究職は性に合っていましたし、環境にも恵まれていたのですが、いかんせん人と接する機会が少なかった。。。
そこで、会社員時代誰よりも多く仕事中に喫茶店に入り浸っていた経験を活かしてこのお店を開いたのです。
そして様々な紆余曲折はあったものの結果として多くの笑顔に囲まれて、しかもこのコロナ渦でもマスク無しの笑顔を見られるという僥倖を得たわけですが、大切なことを忘れていました。
それは、笑顔は見るものではなく見せるものであるということ。
ホンの一瞬、偶然見ただけの笑顔がこれだけの力を与えてくれたのですから、私の笑顔だってきっと誰かの力になれるハズ。
これからは今まで以上に全力の笑顔を見せねばなりますまい。
このご時世ですから見えるのは目のあたりだけしかありませんが、マスクの下にはチェシャ猫を上回る壮大な笑顔が隠されていると思って頂きたい。
 
さて、ここまで書いて気になるのは、あの笑顔が本当にエッセイを読んだことによるのかということ。
もしかするとただの思い出し笑いだった可能性もあるのです。そこでお願いがあるのですが、もし上の話に心当たりがあり、なおかつあの笑顔がエッセイでよるものでなかったとしても、決して指摘せず勘違いしたままにさせておいて頂きたい!




KURIKURI