Vol.17 2003.5.1 この号の当選番号は032と145です。
相対性味覚論
「美味しんぼ」というマンガをご存じでしょうか?
これ以前の料理マンガといえば、料理人が何故か山にこもって「目にもとまらぬ包丁さばき」の特訓をやったり、「こんなのありか?」と言いたくなる奇想天外な組み合わせで読者を煙に巻いていたものですが、このマンガは別物です。
「食」というものを通して文化や環境にまで言及するという姿勢もまた素晴らしいのですが、何よりもでてくる料理がまた本当においしそうなのです。
このマンガに出会ったのは二十年近く前、大学の友人宅に泊まりに行った時に八冊ぐらい部屋にあって、友人の恋の悩みをそっちのけにして読みふけったのが最初です。
それまで料理といえば「たくさんある=良い料理」だったのですが、これを読んで、目にコンタクトが飛び込んできたように料理というものを見る目が変わりました。
おいしい料理を作るためには、料理人だけでなく素材や調味料を作る人達のどれだけ多くの努力と工夫が重ねられているのかということを初めて知ったのです。
そしてその時以降、出来るだけちゃんと作られた料理を、味わいながら食べるようになったのです。
とはいえ、貧乏学生にとって「ちゃんとした料理」には限りがあります。せいぜい学食の280円定食をやめて、大学近所の学生相手に500円で心のこもった料理を作ってくれるお店に行くぐらいしかできません。
そしてその中でも自分的に「贅沢」だと思っていたのは、その500円を食事に使わず、近くにあった「九州一おいしい」と評判の喫茶店の珈琲に使うことでした。
当然珈琲では腹の足しにならず午後一杯空きっ腹を抱えることになるのですが、500円でただ単においしいものを食べるのではなく究極の珈琲を飲む、この贅沢感に当時は自己陶酔していたのです。
しかも、この自己陶酔は無駄にはなりませんでした。
その店のマスターが、飯も食わずに珈琲を飲む私に同情したのかあきれたのか、店の手伝いを条件にただで飲ませてくれるようになったのです。
おかげで、空きっ腹で午後の授業を受けることがなくなっただけでなく、豆の選別や焙煎の手伝いをすることで、一流の珈琲店が一杯の珈琲にかける手間と工夫までを知ることが出来たのです。
そしてその後は、バブルが弾ける前に会社員となり、おまけに高額機器の選定という仕事を任されたおかげで接待攻勢を受けることとなり、一流の店で腕のいい料理人が手間暇をかけて作った本物の味をただで味わうことが出来ました。
とはいえ、時はバブルのまっただ中、自腹ではとても行けないような料亭のだしに化学調味料が使ってあったり、一手間かければ臭みなんかでないはずのスッポン鍋が生臭かったりするような店にも何度か出くわしました。
一流といわれるお店で高い料金を払ったからと言って必ずしも「ちゃんとした料理」が食べられるわけではないという事を、ただで学ぶことが出来た貴重な体験でした。
しかし、これは「ただ」で食べたから味覚を客観的に分析できたわけで、自腹となるとそうはいきません。
同じレベルの味でも700円なら「めちゃくちゃおいしい」と感じるのに1200円なら「まあまあだね」と感じ、2500円なら「おいしいと思わなきゃ損」と感じてしまうのです。
私がもし「おぼっちゃまくん」のようなスーパー大金持ちならば、金額など気にせず純粋に味覚だけで判定できるのでしょうが、生まれついての庶民なので、どうしても価格との相対評価になってしまうのです。
さて、翻ってみれば我がKURIKURIのランチ。700円以下という価格の割にはちゃんとした料理を作っているつもりではありますが、絶対的な評価としてはどの程度のレベルなのでしょう?
価格に惑わされない絶対味覚をお持ちか、スーパー大金持ちのお客様、ぜひ判定してください。