Vol.39 2006.3.1
この号の当選番号は150と172です。
贅沢は敵?
以前にも書いたように我が家では時々おいしいものを食べに行きます。
そしてそれは時として分不相応なほど高価なこともあり、客観的には随分と贅沢なことをしています。
しかし、贅沢の贅は贅肉の贅であり本来無駄なものでなければならないはずです。
相撲取りの脂肪を贅肉といわないように、仕事に活かすためにおいしいものを食べるのは贅沢とはいえないでしょう。
実際、イタリアンの時などパスタ担当の私としては、舌と胃袋は美食に打ち震えていても脳味噌はセンター試験を受ける受験生並に研ぎ澄まされています。
視覚・嗅覚・味覚をフル動員して素材や調理法を推理し、時には敗北感に打ちひしがれながら、孤高の勝負を戦い抜いているのです。
・・・ってのは大げさですが、傍で見るほど贅沢気分に浸れないのは間違いありません。
しかし私も人間です。たまには思いっ切り贅沢気分に浸ってみたい!!
そこで私は考えました。私にとって「贅沢」とはいったい何なのだろう?
基本的に己を飾る意欲が薄いからブランド品にも高級時計にも興味がない。
唸るほどお金があるのなら世界中を旅して見聞を広めたいところですが、唸るどころか寝息さえも聞こえない現状では岐阜県漫遊でさえキビシイのです。
そこで再び考えました。
海よりも深く考えてみました。そして気が付いたのです。
贅沢は青い鳥のように身近にいたのです。
当店には本を読みに来るお客さんが結構います。
それも置いてある雑誌を読むためでなく、自分で買ってきたり図書館で借りてきたりした本の第一ページをここで開くのです。
これはかなり贅沢なことではないでしょうか。
お気に入りの本を読むだけならば、自分の部屋でも図書館でも、そして薪を背負って歩きながらでも可能です。
それをわざわざ安くもない喫茶店に入って最初のページを開く、これを贅沢といわずして何を贅沢というのでしょう。
そこで早速私もお気に入りの作者の新刊を買い、ちょっと離れた隠れ家的な喫茶店に行って来ました。
そしてまずは珈琲を注文して・・・と思ったのですが、ふと気が付きました。
ここで珈琲を飲めばきっと豆の種類や焙煎具合が気になってしまうに違いない。
それではここまでやってきた意味がありません。
紅茶でも同じ事ですし、歴史小説にコーラは合いません。
結局・・
「ホットミルク下さい」
これが開拓時代のアメリカならば周囲の荒くれ男達が「坊やはおうちに帰ってママのオッパイでもしゃぶっていな」とでも挑発し、銃撃戦の一つも始まるところでしょう。
しかし二十一世紀の日本ではそんな事も起こらず、ゆったりとした贅沢な時間を過ごすことができました。
しかし、一般市民にとって贅沢は簡単なことではありません。
この、本屋から始まってたった四時間ほどの贅沢な時間を作るために、当日は早朝から翌日の仕込みや焙煎を済ませて確定申告の書類を書き上げ、そして夜中にこのエッセイを書いているのです。
当店で優雅に本を開いているようにみえる方達も、きっと様々な用事を片づけて、やっと作り出した贅沢な時間を楽しんでいるに違いありません。
むしろそうやって作りだした時間だからこそ、より大切に思えるに違いないのです。
誰にでもできる贅沢「喫茶店で読書」。
ぜひ一度お試し下さい。(できればKURIKURIで・・・・)